| 緯度経度の(*)印は対象場所(エリア)の中央付近の座標です。無印は周辺再近場所での測位座標です。 |
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百舌鳥古墳群のほぼ中央に位置する「いたすけ古墳」は、前方部を西に向けた前方後円墳で,昭和31年(1956年)5月15日に国の史跡に指定されました。 墳丘の規模は、全長約146m、後円部の直径約90m、高さ約11.5m、前方部の幅約99m、高さ約10.5m。2段に築かれ、古墳群中8番目の大きさです。 主体部の構造や副葬品はわかっていませんが、5世紀中頃から後半頃の建造と考えられています。宮内庁の管理ではなく、堺市の管理となっています。 また、吾呂茂塚古墳(ごろもづかこふん)や、今は消滅してしまった善右ェ門山古墳(ぜんうえもんやまこふん=赤山古墳)など、いくつかの陪塚があったと言われています。 いたすけ古墳は「古墳保存運動」成功例のシンボルとして、歴史的な意義を持っています。 昭和30年(1955年)当時は、戦後の復興による人口増加等、市街地拡大が避けられない状態となっていました。 民有地であったこの古墳の墳丘の土を住宅の壁土に利用し、その跡地を住宅地にする計画がおこり、南側の造出し部分の傍らに、ダンプカーが渡るためのコンクリートの橋が架けられました。その計画を知り、堺市民、教員団体、研究者などが中心となって必死の保存運動が展開され、新聞にも大きく報道されたjことや、皇族で歴史学者でもある三笠宮が視察されたこともあって、ついに工事は中止。堺市が買収し保存することになりました。コンクリートの橋は、この時寸断されたまま残されています。 この運動の少し前の昭和20年代の中頃に、「履中陵古墳」のすぐ南側にあった一回り大きな「大塚山古墳」は消滅し住宅地となってしまいました。そうした経過を経て、今でも、「いたすけ古墳」は保存運動の成果として語り継がれています。 当時、「いたすけ古墳」から出土した衝角付冑型埴輪(しょうかくつきかぶとがたはにわ)は、文化財保存のシンボルとして、堺史博物館の展示室入口に展示されているので、散策に時間的な余裕があれば、一度寄ってみることをお勧めします。 また、他の古墳群とは違い、墳丘のかたちを分かりやすくし、教材として利用できるよう、生い茂っていた樹木を徹底的に伐採し除草剤を撒かれました。それから40年、樹木の生育もみられますが、JR阪和線沿いに位置しているので、車窓からなめらかな墳丘の曲線を楽しむこともできます。 このため、百舌鳥古墳群の中でも「仁徳陵古墳」に次ぎ、よく知られた古墳として愛されています。 樹木伐採後かなりの年数が経ち、裾辺りには雑草やリュウクウハゼなどの樹木も茂り始めています。そんな中、どのようにして移り住んできたのかは分かりませんが「狸」が住みつき、最近の住民の方のお話しでは11頭近くが確認されているそうです。寸断されたコンクリート橋辺りから眺めていると、数頭の「狸」が「餌が貰えるのか...」と現れ、愛嬌を振りまいてくれます。また,古墳内での巣づくりや繁殖も確認されています。 おにぎりやみかん等を橋まで投げ入れてやると、おいしそうに食べています。 ただ、男性が訪れてもあまり姿を見せてくれないとか…。男性より女性の方が好きなようです。
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