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仁徳陵を例にとってみても、仁徳陵、仁徳陵古墳、仁徳天皇陵、大山陵、大仙陵、大山古墳…云々、多種多様に呼ばれています。それでは、どれが正しい呼称なのでしょう?
答えは、「全てが正しい」または、「どれが正式と断定することはできない」らしい。
古墳から「墓誌」と呼ばれる「誰の墓であるかと言うことが書かれた物」が一切発見されないことや、学術的には、本当に天皇の墓なのか、また、間違いなく伝承されている天皇が葬られているのか…が未解決のため、敢えて土地名や天皇名を外した呼称が用いられることが多くなっています。
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エジプトのピラミッドや秦の始皇帝陵など、歴代の権力者にとって、その力を誇示することは、重要なことだったことが伺われます。力をみせつけるという意味合いもあったことでしょう。
もちろん、倭国の王にとっても同様のことが言えたに違いありません。
仁徳陵の方向性をよく見ると最長部を海に向けていることが分かります。当時の海岸線は、現在よりももっと仁徳陵に近かったことは容易に理解ができます。
当時、大阪湾の沖合いから内外の船が訪れたと考えられます。海上から仁徳陵古墳、履中陵古墳、反正陵古墳が見え、誰もがその規模の大きさに驚いたであろうことが容易に想像できます。
陸地は、現在のようなグレー系に見えていたのではなく、おそらく原野のグリーンが濃かったと思われます。
高い建物も無く、沖を走る船からは、グリーンの大地に河原石が敷き詰められ白く輝く古墳が巨大な建造物として、見事に権力を誇示していたことでしょう。
内陸部の古墳は、海からは見えないため、古い街道を行き交う人々に対し権威を誇示していたと思われます。
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古代の百舌鳥野の想像図です。
ニサンザイ古墳が完成したばかりの様子で、最初に建造された乳岡古墳(左下)は既に木がたくさん生えています。
堺市博物館編集発行「百舌鳥古墳群ガイドブック=古墳のなぜ?なに?=より加工転載」 |
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世界的な墳墓として、誰もが良く知っているエジプトの「ピラミッド」で、今から約4500年前(紀元前2500年頃)の建造と考えられています。紀元前25世紀で、日本の古墳とは随分時代が異なります。
それから約2300年ほど経った2200年〜2000年ほど前(紀元前2世紀〜1世紀)に、中国では秦の始皇帝陵や、武帝の茂陵など、前漢時代の皇帝陵が建造されています。当然のこととして、これらも「古墳」と呼ばれています。
日本で「古墳」が作られ始めたのは、奈良県桜井市の纏向遺跡の箸墓古墳ができた3世紀中頃からで、4世紀後半に古市古墳群(大阪府藤井寺市)の中ツ山古墳、4世紀末に百舌鳥古墳群(大阪府堺市)の乳岡古墳が建造されています。
5世紀の始め頃には、日本では古市古墳群(羽曳野市)の応神天皇陵古墳が作られ、同時期に中国・集安の高句麗・大王陵等が建造されています。
ところで、中国には前方後円形の墳墓はありません。「前方後円墳」は日本独自の様式だと考えられますが、韓国南部で一部見つかっています。
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仁徳陵古墳を例として考えてみましょう。
仁徳陵古墳の築造時期は、「日本書紀」では4世紀末。「古事記」では5世紀前半。…と、記紀を比べただけでも、半世紀の差が出てきます。石室の天井石と類似した古墳との照合なども取り入れると、優に1世紀の差も出てきそうです。仁徳陵古墳は仁徳天皇が生前から作り始めたといわれているのだから、その当時の建造だろう…。と簡単に結論が出そうですが、残念ながら、そのためには仁徳陵古墳が仁徳天皇の墓所であることが学問的に証明されなければならないのです。しかし、日本の古墳からは、「墓誌(ぼし)」とよばれる、誰の墓なのかが明記されたものがほとんど見つかっていないことから特定が難しく、多くの意見が出ているのが現状です。また、当時はまだ「天皇」と呼ばれる称号も無かった時代なので、仁徳天皇が実在したか否かという極論も明確な解答ができない状況であると言えます。
そんな状況の中で、ひとつの方法として、信頼できる中国の史書「宋書」・「梁書」に出てくる倭国の5王(讃・珍・済・興・武)のうちの一人が仁徳天皇であると想定し、日本側の文献に出てくる天皇との比較をすることも試みられていますが、この場合も、祀られているのが仁徳天皇であることが前提となります。
他に、出土品などから考古学資料と照らし合わせ製造時期を推定する試みも盛んに行われています。
例えば、アメリカのボストン美術館が所蔵している太刀の柄頭や鏡は、韓国の武丁寧王陵から出土した柄頭や鏡ときわめて類似しており、武丁寧王陵が6世紀の築造であることから、6世紀のものと判断できますが、宮内庁の天皇在位の期間と大きな差が出てしまいます。
現在では、出土した円形埴輪や須恵器の研究により、仁徳陵古墳は5世紀中頃とする意見が大勢を占めています。
信頼度の点について、現皇太子殿下のお言葉を借りて言えば、「そうかもしれないし…そうでないかもしれない…」と、言ったところでしょうか…?
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ニサンザイ古墳の墳丘長は、約290m。反正陵の墳丘長は約148mです。
長さから言えば反正陵よりニサンザイ古墳の方が約2倍。面積で約4倍。体積比にして約8倍の違いがあります。
2つの古墳の出土品から、ほぼ5世紀後半に同時に建造されたのではないかと考えられており、先にもあるように、古墳の規模は、時の権力者の威厳さを表現していることから、現在の反正陵を反正天皇の陵墓と考えるなら、同時期に反正天皇の8倍近い力を持った何者かが存在し、ニサンザイ古墳を建造したこととなります。
しかし、歴史学的にも、そのような権力者は見当たりません。
古文書「延喜諸陵式」の反正陵の記述には、東西に広く仁徳陵の北の方向(北陵)にあると書かれており、現在の反正陵は南北に広く、この記述には矛盾しています。この条件ではニサンザイ古墳がピッタリ当てはまりますが、位置で言えば仁徳陵の南側にあり、これまた矛盾を起こしてしまいます。
しかし江戸時代、ニサンザイ古墳の地元「土師村」の古文書「田安領地村鑑大概帳」では、ニサンザイ古墳をずばり「反正天皇陵」とする記述がみられ、また、仁徳陵と反正陵に近い中筋村の庄屋を歴代つとめた南家の古文書には、「土師村の村民が、ニサンザイ古墳に「天皇陵」としての伝承があるにもかかわらず、幕府に召し上げれられ「御林」となると、村民にとって不利益になると考えて、偽って申し立てをした」ことおよび、現「反正陵」はどの天皇の陵との伝承がなかったことが明確に記されています。
どの資料を中心に研究するかにより結果も変わってきますが、さて、あなたの推理は如何なものでしょう?
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仁徳陵古墳は天皇の陵墓として宮内庁が管理し、明治時代から一般の立ち入りや調査が禁じられているため、詳しいことはわかっていませんが、石棺そのものは運び出されていないものと考えられています。
江戸時代の古文書「全堺詳志(ぜんかいしょうし)」には、「御廟は北峯(後円部)にあり。石の唐櫃(からひつ)あり。蓋石(ふたいし)長さ一尺五寸(318cm)、幅五尺五寸(167cm)、厚さおよそ八寸(24cm)、内には明器等あるにあらず、空櫃なり。千四、五百年を経たるならば、盗賊のあばきたるならん。」と石棺が盗掘されていた。…と記され、内容から推察すれば、石棺は残っているものの中身は何も無かった…ということがわかります。
また、明治5年には、前方部の一部が崩れ、そこからも石棺が発見されました。
こちらの石棺は、後円部のものより一回り小さなもので、副葬品として鏡やガラスの皿などが出土したようです。
それらの出土品は、宮内庁の調査後に元通りに埋められたと報告されています。
後円墳の石棺の蓋石については、新井白石の著述をまとめた「新井白石全集」に、「仁徳陵の石棺の蓋石が、堺奉行所の庭の踏み石になった…。」と書かれていることから、蓋石は行方不明ですが、石棺だけは今も陵内に保存されているようです。
堺市博物館では、常時展示として、2つの石棺の実物大模型を展示していますので、参考にしてみてください。
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堺市博物館に展示されている
仁徳陵後円部に埋められている石棺の実物大模型
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石棺の内部
天井(蓋石の裏)はベンガラ様のもので
朱色に着色されている。 |
円筒埴輪の模型。
塚の崩れ防止に用いられたのか?
古墳の周りに垣根のように並べられています。
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仁徳陵の謎の詳しい内容については、旅のとま〜るのライターでもある中井正弘氏(元堺市博物館副館長)の著書「仁徳陵-この巨大な謎-」創元社刊(1,600円+税)に詳細が書かれています。
肩を張らずに気軽に読める内容ですので、百舌鳥古墳群探訪のお供に、是非ご一読ください。
創元社:06-6233-9010(残り若干部数ですので、売り切れの節はご容赦ください)
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■主な内容■
●.「仁徳陵」をどう呼ぶか ●本当に世界最大か ●現状の二倍の陵域だった? ●巨大な未完成の古墳
●ボストン美術館の所蔵品は、本当に「仁徳陵」 出土品か ●にさんざい古墳は「反正陵」ではないか等、37項目。
仁徳陵を徹底的に研究,検証し、この大きな謎にせまり、解明への糸口をさぐっている名著です。 |
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