| 緯度経度の(*)印は対象場所(エリア)の中央付近の座標です。無印は周辺再近場所での測位座標です。 |
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百舌鳥古墳群の代表的且つ日本最大の前方後円墳であり、北側の反正陵、南側の履中陵とともに百舌鳥耳原三陵と呼ばれ、明治以降、宮内庁の管理となり、中陵(なかのみささぎ)・仁徳天皇陵とし、前方部の中央辺りに拝所が設置されています。 ここを散策のスタート地点とし、右回りも良し!左回りも良し!太古の景色や遠い時間の彼方で漂っていたであろう空気の香り等を想像しながら、とにかく歩き始めてみましょう。 外周には、遊歩道が設置されているので、濠に遊ぶ水鳥の姿に見入ったり、鳥の声を聞いたりと、のんびり落ち着いた雰囲気の中、気持ちよく散策することができます。 仁徳陵は、前方部を南西方向に向け、墳丘規模は全長約486m、後円部の高さ約35m、直径約249m。前方部については、幅約305m、高さ約33m、3段に築成されています。しかし、残念なことに、後円部の頂上には盗掘の跡が見られ、石棺は残っているものの、副葬品が残っている可能性は余りありません。 左右のくびれ部には祭こと等で使用された場所と考えられる「造出し(つくりだし)」が見られ、外周部分に存在する丸保山古墳など数多くの古墳は、陪塚(ばいちょう=関連性があるとおもわれる小さな円墳や方墳)と考えられます。石棺のレプリカが大仙公園内の「堺市博物館」内に展示されているので、一見の価値があるかもしれません。 他の古墳に比べ、仁徳陵の等高線は乱れすぎている。通常、人工的に整地された場所なら、等高線はそう乱れることはないもの。しかし、仁徳陵の場合は異常に乱れていることから、仁徳陵=未完成説や地震等による墳丘の崩壊説などが唱えられていますが、地震によるものであれば、周辺の反正陵なども少なからず崩壊の跡があってもよさそうな物で、未だ謎のままです。 江戸時代には、近隣住民の里山として自由に立ち入りできたものの、他の宮内庁管理の陵と同じく、明治初期以降、一般の立ち入りは禁止されています。 一般の立ち入りは、拝所までで、それより先は皇室関係者のみとなっています。 拝所が設置された明治以降、墳丘への立ち入りは、この拝所からとなっていますが、それ以前は後円部から入り、約幅70mの内濠を渡っていました。今は鉄の門扉で閉ざされていますが、その名残りを見ることができます。 現在の外濠は明治時代に掘りなおされたもので、葺石や女性の頭部の埴輪等が出土しています。昭和40年までは、濠の水は近隣の田畑の灌漑用としても利用されていました。その水を取り出したのが「灌漑用樋門跡」として、2箇所に碑が立っています。しかし濠の水量には限度があり、何とか狭山池から水を引こうとした歴史も伺われます。明治7年(1874年)、念願の狭山池からの引き水に成功したものの、昭和40年頃には周囲の田んぼが消滅!長い灌漑用水の歴史が閉じられました。 明治5年には前方部で土砂が崩れ、竪穴式石室に収められた長持型石室が露出し、刀剣・甲冑・ガラス製の壷が出土しています。この時の出土品は、再び元の位置に埋め戻されました。 アメリカのボストン美術館には、仁徳陵から出土したとされる「銅鏡」、「太刀柄頭(たちつかがしら)」、「三環鈴(さんかんれい)」、「馬鐸(ばたく)」が所蔵されていますが、当墳から出土したものかどうかは疑問視する意見もあります。 また、仁徳天皇陵と言われていますが、仁徳、履中の在位の順序とは逆に、仁徳陵は履中陵とされているミサンザイ古墳(石津ヶ丘古墳)よりも新しく、5世紀中頃の築造と考えられている点も大きな疑問となっています。
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